やがて忘れる過程の途中(アイオワ日記)

滝口悠生『やがて忘れる過程の途中(アイオワ日記)』を読み終えた。

やがて忘れる過程の途中(アイオワ日記)

やがて忘れる過程の途中(アイオワ日記)

 

著者がアイオワ大学のインターナショナル・ライティング・プログラム(IWP)という滞在プログラムに参加した際の三ヶ月の日記。著者の前年は藤野可織、その前は柴崎友香が同じプログラムに参加していて、柴崎もこの時の体験記を本にしている。

公園へ行かないか? 火曜日に

公園へ行かないか? 火曜日に

 

『公園へ行かないか?火曜日に』は連作小説集で、ノンフィクションなのかと思いつつ読んでいたら最後に「小説」というかたちをとっていたことがわかってびっくりした記憶がある。変わった形式だったが、今回の滝口の本はタイトルからもわかるように日記。日付があって、その日の天候、プログラムの内容、仕事の内容、食べたものなどが書いてある。日記文学は大好物なので面白く読んだ。滝口の、思考が行ったり来たりするような、周りくどく感じさえする文章が日記という体系に合っているというか、日記だからこそ、その行ったり来たりがよりエモーショナルに感じられて、息遣いが伝わってくるように彼の思考がこちらに流れ込んでくるようだった。 

私はこれまでも、こんなふうに緩やかに無為な時間を一緒に過ごすことで、他人と親しくなってきたのだった、と思い出していたのだけれど、その、こんなふうに、というのがどんなことなのか、うまく言えない。まさにいまここにある感じであるにもかかわらず。それは私の言葉がいまここにないからかもしれなくて、いま私は、この場所で数日前に出会った大勢のライターたちのなか、彼女と最初に親しくなりつつあると感じているけれど、はたしてその親しさは彼女にとって似たような親しさなのかどうか。私だけでも、彼女だけでもない、私たちのあいだを、どんなふうな言葉で言えばいいのか、どんな名前をつけられるのかが、わからない。でも。これまでに同じ国の、同じ言語のひとと親しくなりつつあったときも、もしかしたらその過程に名前なんてなかったのかもしれない。

本の中で著者も書いているが、日本人の作家には日本語ができる大学の先生のサポートがあるなどかなり優遇されている。なので著者のように英語ができなくても何とかなってしまう。でも余りにも「話についていけなかった」「何を言っているかわからなかった」という記述が多くて、この人はこのプログラムで何かをちゃんと得られるのだろうかと心配にもなった。ある程度英語ができる人が参加した方がいいのではないか、と余計なお世話なことを思ったりもしたが、その「わからない」ことを正直に書いていること、わからなくても言葉以外のことで他の国のライターたちとコミュニケーションをとっていることもエモーショナルで、言葉を武器にしている人が言葉を使えないでもがいている、人間そのものの可能性をさらけ出して「わからない」の迷路を進んでいく姿は何というかすごく初々しい、「はじまり」のように感じられた。何度も何度も「はじまり」は起こる。

ちなみにタイトルを英訳すると、A moment along the way that we will all inevitably forget.となるようだ。表紙のデザインは色のパターンが何種類かあるらしく、今回図書館が買ってくれたものは右から左へ、クリーム色から淡いオレンジ色へ変わるグラデーションのものだった。